2019年5月14日火曜日

51 国書由来というけれど・・・

 4月1日、新元号「令和」が発表された。
 「れいわ」と読む。令の字は、「大化」以来248の元号で初めて使われた字だという。
 そしてもう一つ「初めて」がある。出典が万葉集、国書由来というのが初めてというのである。

 「令和」は、万葉集の第五巻に収められた「梅花三十二首」の序文からとったという。
 天平2(730)の1月に、大宰府の大伴旅人邸に山上億良らが集まって宴をひらき、歌を詠んで楽しんだ時のものである。大伴旅人というのは、万葉集選者大伴家持の父である。

 政府は、この「初めての国書由来」を強調、 安倍首相がわざわざ時間をとってTV放送で説明したほどである。多くのナショナリストたちも大いに評価しており、この新元号の決定について中国が悔しがっていると評する者も多かった。
 しかしながら私は、この国書由来をことさらに強調し、中国文化に対抗するような雰囲気を感じさせる物言いに違和感がある。


★万葉集は、中国文化の活用によってできた


 「令和」は、序文の下記の部分からとられた。

    初春月 気淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

 序文は見ての通り漢文で、読み下し文にすると「初春の令月にして、気よく風やわらぎ、梅はきょうぜんのこをひらき、蘭ははいごの香をくゆらす」と読む。「令」は良いという意味で、初春の良い月で天気もよく、風もおだやかと、宴の日をたたえる文であるという。

 漢文は、記録手段・表現手段として日本文化に長く貢献した。平安中期の代表的な学者であり政治家でもある菅原道真は、漢詩文に秀で、学問の神とたたえられた。このころの貴族は日記を漢文で書いており、仕事の場のみでなく日常的に漢文を使用していたことがわかる。また、漢学者藤原為時の娘の紫式部が、幼いころ兄と共に漢籍を学んだということがもよく知られている。

 古代の日本は固有の文字は持っておらず、漢文を利用することと併行して、漢字の音だけを利用して日本語を表記するという方式を生み出した。
 遺跡から発見された剣や木簡に残された文字の分析から、5世紀ごろにはその方式は始まっており、7世紀ごろに確立したと考えられている。下記は、大阪の難波宮跡で発掘された木簡に記された11文字とその読み方である。

    皮留久佐乃皮斯米之刀斯 (はるくさのはじめのとし)

 この方式は、いわゆる万葉仮名と呼ばれるものである。万葉集で多く使われていることからその名がついた。万葉集では、漢文と万葉仮名とが混在している。序文は漢文で書きつつ、歌は「やまとことば」で詠み、漢字の音で表記して日本人の感性を表現した。
 そして、万葉仮名からさらにカタカナ、平仮名を生み出していき、日本語の世界を広げていった。これは、日本と中国の文化が融合した結果と言えるのではないか。


★日本文化の特性は“融合”と“創造”


 日本の衣・食・住の文化、そこに使われている技術、そして芸能、さまざまな文化には、中国・朝鮮あるいはインドや中東の文化の影響を一つも受けずに存在しているものはないと言ってよいだろう。
 その一方で今日、日本の文化、『和』の世界はその独創性を世界から認められている。
 各国の文化を取り込んで融合させる中で、さまざまな独創的なものを生み出す、それが日本文化の特性なのではないかと思う。これは、むしろ誇るべきことではないかと思う。
 そして、「この『和』の文化は、貴国の文化あってこそのものです」という姿勢こそ、近隣諸国との友好を築くものとなるのではないだろうか。
 

★平安時代、主要氏族の1/3は渡来系


 私は数十年前、大学で文化史を学んだのであるが、そこで私の考えを大きく変えた書物『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)』と出会った。
 『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)』とは、平安初期の815年に編纂された当時の氏族名観で、京および畿内(当時の首都圏。山城、大和、河内、泉、摂津)に住む主要氏族1182氏について、その祖先や氏の名の由来などを整理したものである。

 1182氏は、その出自により大きく「皇別」「神別」「諸蕃」の3つに分類されている。皇別は天皇家から分かれた氏族、神別は天皇家が成立する前から存在していた日本古来の氏族である。
 そして最後の諸蕃が注目すべきもので、これは渡来系の氏族であり、326氏があげられている。
 326氏というのは、1182氏の28%、およそ1/3といってもよいほど渡来系の氏族が存在していたのである。

 これらの氏族は、古くは5世紀ごろから、学者・技術者として迎えられ、また政治的亡命者として朝鮮半島から渡ってきた人々である。製鉄、土器製作、農耕技術、土木・灌漑技術、養蚕、機織り、そして漢字、芸能などさまざまな技術を持って渡来し、政権内で役人として仕えたものも少なくない。
 氏族の数が1/3だからといって、人口の1/3が渡来系の人々であったとは言えないが、首都圏に相当数居住していたことは間違いのないところだろう。そしてやがて、それらの人々が地方の開拓にも力を発揮していく。そこかしこに渡来人由来の地名があり、史跡があることからもそのことがわかる。残されたものから、日本の国づくりの原動力となり、文化の担い手になっていたことが読み取れる。

 例えば、このJADECの事務所のある新座は、かつては新羅郡といって、1300年ほど前に新羅人たちが移住した土地である郡というのは、大和政権の行政区画で、50戸を一単位とする郷がいくつか集まって構成したもので、当初は300人ぐらいで構成、平安中期には千数百人規模になっていたと考えられている。(現在の志木駅周辺、それからもう少し南部の大和田あたりだと言われている。)
 同じ埼玉には、新羅郡よりはるかに大きい規模の高麗郡も存在していた。こちらは716年に、それ以前に相模・駿河・甲斐など7か国に居住していた高句麗系渡来人1799人を移住させたという記録が残っている。現在の日高市を中心としたあたりである。
 新羅郡は平安中期に「新座(にいくら)」、現在は「にいざ」と名前を変えたが、高麗郡は明治期にもその名が存在し、高麗(こま)は今も地名として残っている。
 
 渡来人たちは持っている技術で土地を開拓し、大きく発展させた。また渡来人のみで孤立していたわけではなく、在来の氏族とも積極的に交流し、婚姻を結び同化していった。
 代表的なのは百済系渡来人である秦(はた)氏で、山城に強大な勢力圏を築いた。桓武天皇の平安遷都にはその財力と技術力が大いに貢献したとも言われている。また、桓武天皇の母となった高野新笠(たかののにいがさ)は百済の武寧王の後裔とされる和(やまと)氏出身であることが、平安初期の勅撰史書である続日本紀(しょくにほんぎ)に書いてある。
  
 勅撰史書:天皇の命令によってつくられた歴史書。


★文化史的背景をおさえて


 さまざまな事実を見ていくと、現代の日本は、渡来人の力なくしては築けなかったということを実感する。いや、日本人、渡来人と分けて考えるのも正しくないかもしれない。現代の日本人そのものが、渡来人の子孫でもあると言っても間違いではないからである。
  
 そうした時代を積み重ねた文化的背景、人々の交流の歴史をおさえて、これからの国のありよう、近隣の国々とのつき合い方を考えていくことができたら、素敵だなあと思うのである。
 
 



 
 




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