2019年8月19日月曜日

56 子どもたちに教えられた本当の民主主義

国民はイライラしている


国会ではなぜキチンと話し合いができないのか。
多くの国民がいら立ちを持ってみている。
それぞれの主張を言い張るばかり、相手のミスをあげつらうばかりで、歩み寄ることをしない。
それを修正するための対案を出さない。

意見が割れたときは、絶対といってよいほど合意には至らない。
意見が割れたまま、多数を握る者たちが、強引に採決に至る。

合意できない理由はいつも相手のせいだ。
自分たちの案を取り入れないと非難しておきながら、
取り入れると変節だと責め立てる。
反対することにこそ意味がある、と言わんばかりである。

しかし、よく考えてみると・・・


われわれ自身にもそうしたところが多々ある。
戦後日本は、戦前の体制を反省し民主主義の形成に力を入れてきた。
学校では学級会や生徒会の場を使い、民主主義による合意形成の方法を指導してきた。
だがその実態は、ほとんどが「民主主義=多数決」という一義的なもの。
主張された複数の異なる意見について決をとり、
多数を得たものが全面的に場をしきるという形で終わる。

意見をすり合わせるとか、少数意見を取り込むという経験をしてきていない。
そういう教育を受けてきた、そういう行動経験しかしてきていない国会議員たちが、
いまの国会の状況を生み出しているとも言えるだろう。
協力しないのではなく、協力できない。
協力して課題に立ち向かうという行動体質そのものが育っていないのである。

民主主義の本質


民主主義は「いかに多くの人の心を寄り添わせるか」というところに、その真髄がある。
「小異を捨てて大同につく」、そのうえで「大同の中にいかに小異を残すか」ということである。
目指すところは同じでも、そこの迫るための考え方・方法論はさまざまだ。
それを闘わせるが、譲れるところは譲り、歩み寄り、合意形成をしていくのが民主主義である。
どうしたら、その方向に向かうことができるのだろうか。

ここで思い出したのは・・・


「私たちの学校」という60年前の映画。
水海道小学校(茨城県水海道市)の自治活動を描いたものである。
水海道小学校の子どもたち自らが演じてエピソードを再現する形で製作された。

当時水海道小学校では10の自治活動の部があり、映画はその中の体育部の活動を中心に描く。
ある年の運動会、プログラムを決める際に、希望する種目がかち合ってしまって起こる学年の対立と、体育部と児童会がそれを解決するまでの活動が描かれている。

水海道小学校では、運動会の企画運営一切が体育部に任されていた。
この対立の解決のための活動も、教師はわずかばかりの助言はするが、
ほとんどは児童主体で進められた。

体育部員たちは双方の学年のクラスごとに主張を聞きに行き、それをもとに協議する。
その結果、上の学年に対し、希望する種目を下の学年に譲ってくれないかと交渉するのである。
そして譲る代わりに、上の学年に対して新しい魅力的な種目を提案する。
上の学年は、了承し運動会のプログラムは全クラスの賛同を得て無事成立する。
背景にあるのは、共通の目標のためにそれぞれが譲り合う姿勢。
より力のあるものが多く譲り、弱いものを守るという基本姿勢である。

この映画の中で描かれた子どもたちの行動、
合意形成のために意見を集約し、アイディアを出し合い協議し、提案し交渉するという姿は、
民主主義とかこういうものかと実感するよい手本だ。
これからの日本築いていく子どもたちには、
ぜひこうした行動のしかたを身につけてもらいたいと思う。

遠回りかもしれないが、本当の民主主義を育てるには、
教育の場におけるこうした活動を積み重ねていくことが必要なのではないかと思う。


      ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


実はこの稿、今から8年前のJADECの機関紙(JADECニュース85号)に書いたものを
少しばかり手直ししたものである。

当時は東日本大震災からの7か月後、民主党政権の時代。自民党が野党であった。
国会では、どのように復興を進めて行くか、
ということで議論が展開されていたのであるが、それがなかなかまとまらない。
その状況に対して思うところを書いたものである。

圧倒的多数ではなかった民主党政権は、自公が反対すると何も決められなかった。
与野党が逆転した今、こんどは相次ぐ合意なき強行採決。
やはり議論は成立してはいない。

8年後の今、この稿が今の国会の状況について書いたもの、
と言ってもほとんど違和感がないことに、暗たんたる思いである。

7月21日の参議院選挙の結果、多少議席は減らしたとはいえ、
自公政権の態勢は変わらず続くことが明らかになった。
国会の体質は、内側からは変わる可能性は小さいということだ。
となると、変えるのは外の力。
私たち国民の力以外にないということである。